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Ezk.6 おおよそこの川の流れる所では


(「教会の使命」エゼキエル書からのメッセージ第六回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

アーネスト・キルボルンは電信技士であり、普通の信徒でした。チャールズ・カウマンもただの信徒でした。また、中田重治は神学校も卒業できませんでした。柔道ばかりしていたと言われています。でも、そのような人を神は用いられました。彼らは、東京神田に『東洋宣教会』という看板を掲げて伝道を開始しました。「東洋に伝道するのだ」と。

それは今日、十六か国、数百万の信徒を擁するまでに成長しました。また、今では東洋に限らず、世界各地に宣教地を持っています。神は願ったこと、思ったことをはるかに超えて叶えて下さいました。そのきっかけを作ったのは二人の信徒と、あまりできのよくない一人の伝道者でした。誰からもカウントされないような無名の伝道者でした。

神のなさることは不思議です。神はその人が聖霊に満たされていきますならば、そのような世界的な業を行う、神の軍隊にして下さるのです。

そのようなことを考えますとき、私たちが救われたということは、同時に私たちの団体、私たちの群、世界的な群が一致協力して神の軍隊となり、人々を生かす者とならなければならないのだと思います。

四十七章を見ましょう。「そして彼は私を宮の戸口に帰らせた。見よ、水が宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう門の外に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた」(四十七章一~二節)。

これは何かといいますと、教会という場所から(神殿から)世界に(四方に)向かって命の川が流れていくのだというのです。九節、「おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている」。十二節、「川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである」。

教会からその水が流れ出るのです。福音によって形作られた教会から流れ出た、生きた水が、四方に流れ出て、その流れるところにおいて、きよめの業を行うのです。また同時に実を結ばせていくのです。さまざまな木が育ち、豊かな実が実っていくのです。

(つづく)

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