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Ezk.2 与えられたビジョン


(「教会の使命」エゼキエル書からのメッセージ第二回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

一章一節では「第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た」とあります。彼が神の器とされました時、彼は異邦の地バビロンに捕虜となり、苦しみ辱めの中、絶望状態にあったのです。その時に、天が開け、神の幻を見たのです。

その幻については、四章四節以下に記されています。なかなか難解な個所です。というのは、神の姿、神の幻は私たちの理性では把握することのできないものなのです。神は実に聖なるお方であり、どう表現していいか分からないお方です。その神の幻を見たというのです。いずれにしても「見た」のです。「何を見たのですか」と言われるとうまく言えないのですが、「神の幻を見た」のです。

教会に来て、イエス・キリストの十字架と復活、聖書の傾注、聖霊の満たしといった恵みの経験をしますと、私たちも何だかよく分からないことがありますけれども、そこでビジョンが与えられます。

この神のビジョンには、神の目を通して自分の姿を見、人々の姿を見、自分が何をなすべきかという使命に立たせる力があります。特に思春期、青年期にある者には「自分がこれからどう生きていたならばいいのか。何をしたらいいのか」ということで迷うものです。それを今日の心理学では、「アイデンティティーの確立」というような言葉を使います。自分がどう生きたらいいのか、どういう仕事について、何をしたらいいのかということの解決が、最も大きな問題であり、これに失敗した者は、一生涯ひがんでいくというのです。

でもエゼキエルは、神の幻を見て神の声を聞き、自分に語られる声を聞いて、同時に人々に語るべきメッセージを与えられて立ち上がっていくのです。

イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦され、死の恐れから解放された者にはビジョン、すなわち使命が与えられるのです。自分が何を、どうしていったならばいいのかということが分かるのです。自分には何もないのですが、神が与えて下さるのです。そういう恵みの出来事、すなわち自分の人生の方向性、自分の人生のビジョンが分かるのです。

イエス・キリストを信じて、罪が赦され、死の恐れから解放され、死の彼方に永遠の命があるということを信じますときに、この世の生活においても、自分がいかに生き、何をなすべきかを神が教えて下さいます。そのことが人々のために役立つような、意味のある、価値のある、また死んでもなお何かを残していけるようなものがあることを示して下さるのです。

(つづく)

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