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Ezk.1 枯れた骨のような


(今回から、七回に渡り「教会の使命」と題し、エゼキエル書からのメッセージを連載いたします。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

「わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、『人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ』。そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった」。エゼキエル書三十七章七~十節

このエゼキエル書は、「聖霊の御業は、枯れた骨のような人間をも生かす」というのが、そのテーマになっています。私がこの教会に初めて来ましたのは、十九歳の青年の時でした。高校一年の時に中退しておりまして、どこに行ってもものにならず、四年間で十六回学校を変えました。恥ずかしくて外にも出られず、毎日悩んでいました。人に会って「今何しているの?」と聞かれるのが怖いのです。そのようなとき、この教会に来るようになりました。

もちろん教会に来たころはそんなに真面目ではありませんで、よく美歌子先生に「あなたは遅く来て、途中で帰ってしまう」などと言われたりもしました。ですから、みんな「やがていなくなるよ…」と思っておられたようです。そのような私が生かされて、今日、牧師のひとりとして立てられているのは神のあわれみです。

今朝は、今後の教会を見据えながら「エゼキエルが何を言おうとしているのか。エゼキエルは何を見たのか。何が一番大切なのか」ということを考えていきたいと思います。

先ほど読んで頂きました少し前の箇所を見ましても、一節、「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた」とあります。聖霊の器でありましたエゼキエルが神に召された時に、何を体験したのか、ということがテーマになっています。

そこで、まず第一に、「個人の救い」ということ。第二に、「集団の救い」ということ。第三に、「世界の救い」ということについてお話ししたいと思います。

(つづく)

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