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Joh.3-4 世の罪をあがなう


(「罪を取り除く神の小羊」ヨハネの福音書からのメッセージ第四回。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち最後の一つ、「本書の主題」と題したセクションより書き起こしています。)

このような罪の問題に対して、イエス・キリストが罪を除いてくださると言っています。神が犠牲の品を用意してくださったというのです。バプテスマのヨハネはイエスさまを見たときに、人々にそれを証ししたのです。人間にはどうにもならない罪、生まれながら持っている罪、この自分中心の罪、自分のためには子供でさえも犠牲にしかねない罪、自分のためには親でさえも犠牲にしかねない問題に対して、解答を与えてくださったお方が、救い主イエス・キリストであるという事を言おうとしているのです。

神がイエス・キリストという、罪の身代わりを用意してくださったというのです。私たちが支払わなければならない罪の刑罰は、死をもってしか償うことはできないのです。動物やほかの物で身代わりにすることはできません。

旧約聖書レビ記を見ますと、自分が羊の頭に手を置き、あるいは牛に手を置き、「私の罪をこれに転嫁します。この牛は、この羊は、この鳩は私の代わりです」と言って、ばっさりと動物の首を切って血を流し、「どうぞ、これが私の代わりの血ですから」と言ったのです。でも、それは毎年繰り返さなければなりませんでした。罪人が罪人によって贖うわけにはいきません。

神の御子、罪なきお方が私の代わりに神の前に罪の代価を支払ってくださり、それによって私は自由になったのです。例えば、私が十万円借金しているとします。自分が借金を返せない場合、その十万円をだれかが返済してくれなければ、私は自由にはなれません。でも払ってくださったのです。それは持っている者でなければ払えません。でも、持っている者が払ってくれたならば、もう私は払う必要がないのです。

聖書ははっきりと、イエス・キリストが私の身代わりになって下さったがゆえに、もう神の前にそれを支払う必要はないと言っているのです。

「世の罪をあがなう」という意味は、身代わりになるということです。イエス・キリストは私の代わりになり、十字架にかかって血を流して、その罪の問題を解決してくださいました。聖書は、まず第一にこの子羊が罪をあがなうために、神によって備えられたものだという事を強調しているのです。その結果、人間の罪は赦されました。いや、罪人であり罪を犯したにもかかわらずその罪が赦された。その罪はなくなったのだ。その罪がなくなったという事は、もはやその罪の刑罰を受けることは必要でなくなったということです。

(つづく)

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