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Joh.3-2 くもの糸


(「罪を取り除く神の小羊」ヨハネの福音書からのメッセージ第二回。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち最後の一つ、「本書の主題」と題したセクションより書き起こしています。)

今朝もお話しましたが、罪と言うのは確かに、償いの出来る罪と償いのできない罪があります。「償いのできない罪」とはどんなことかと言いますと、心の内で思ったこと、身近な人に言ってしまったことです。今ではどうにもならない罪というものです。

芥川龍之介の「くもの糸」に出てきますが、ある男が血の海から救われようと思って上から垂らされてきた一本のくもの糸、それにしがみついて昇っていった。ようやく昇ったと思ったときに、下を見ると、うぞうむぞうが昇ってくる。これではくもの糸が切れると思ったその男、下からはい上がってくる男の頭を蹴った。すると糸が切れた。最初それを読んだ時、「こんなくだらない話、ばかじゃないか」と思いました。しかし、これは人間のエゴ、罪というものの本質をいっているのです。

人間には自分中心、自分のことしか考えないという罪の意識があり、自分だけが救われれば良い、他の人はどうでもいい、「ああ、あいつらが昇ってきたら、くもの糸が切れてしまう」と。そういう思い、だから下から来る人の頭を蹴ったのです。すると、糸は切れたのです。

その芥川は、後に自殺しました。なぜ自殺したのでしょうか。彼の三人の子供に、書き残した遺書があります。 ―これも小説の中に入っていますが― 自分は本当にぼんやりとした不安、つかみ所のない恐れを抱くようになった。なぜかとは書かれていませんが、彼が言おうとしていますのは、人間の罪が自分の内側にあり、あのくもの糸によじのぼって天に昇って行こうと思った人、あの愚かな人はまさに自分なのだという事を、彼は意識しないではおれませんでした。

ですから、こんな自分を考えれば考えるほど不安で不安でたまりませんでした。本当の自分の姿は、そういう自分だったのです。他人のことなんかどうでもいいのです。もう、自分だけがよければ、それで良いのです。また、彼の書きました作品の中に、ある画家がだれにも描けないような絵を描くように求められます。その画家は、それを引き受けます。偉い人を担ぐ籠を持ってきて、その下に芝を持ってきて自分の娘を籠の中に入れ、縛って火をつけました。もちろん、中で自分の娘が大声で助けを求めました。それを見ながら、その画家は冷ややかに絵筆を握っていたというのです。まさにこれは、芥川自身なのです。

「そんなことができるものか!」と思うのですが、人間は自分のエゴのためには、自分の愛する者でさえも犠牲にしかねないのです。それを言おうとしたのです。

人間は自分のためには、子供でさえ犠牲にすることだってあるというのです。どんなに恐ろしい罪であるかといいますと、他の者では、そのものすごさが出てこないのです。世界一の作品を作るためには、どうしても身近な者を犠牲にしなければならない。これが人間の罪、人間のエゴだというのです。これが私たちの本来の姿、本当の姿だというのです。私たちは、そういうことを知らなければなりません。

(つづく)

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