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Joh.3-1 みかん泥棒 再び


(今回から、五回に渡り「罪を取り除く神の小羊」と題し、ヨハネの福音書からのメッセージを連載いたします。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち最後の一つ、「本書の主題」と題したセクションより書き起こしています。)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」一章二十九、三十五、三十六節

これはだれが言ったかといいますと、バプテスマのヨハネがイエス・キリストを紹介するときに、イエスさまをこのように言ったのです。ヨハネによる福音書の一章は、六節から四十二節まではこのバプテスマのヨハネとの関係において、イエス・キリストのことが書かれているのです。

このバプテスマのヨハネは、エッセネ派に属していたのではないかと言われています。彼は、いなごと野菜を食べて、皮の毛衣を着て、荒野で悔い改めを迫っていたと言われています。実はイエス・キリストも、このバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、弟子のアンデレにしましても、他の弟子たちにしましても、最初はこのバプテスマのヨハネの弟子であったようです。

このバプテスマのヨハネは、後に来られるイエス・キリストというお方こそが、聖霊によってバプテスマを授けられる本当のメシアであり、自分はその方の靴ひもを解くにも足らないような者であると言って、その道備えをしたのです。「道備え」というのは、大名が通るときに、やっこさんが「下へ、下へ」と言って通る準備をすることです。同じような働きを、バプテスマのヨハネはしたのです。そしてイエス・キリストを紹介すること、これが彼の使命だったのです。ですから、このヨハネによる福音書の一章は、バプテスマのヨハネを登場させて、「イエス・キリストとはだれか」ということを、まず言おうとしているといわれています。

では、そのバプテスマのヨハネは、イエス・キリストのことを何と言っているでしょうか。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」、すなわち、神が備えてくださった子羊であるというのです。

私たちは教会に来ますと、よく「罪、罪」と言われます。私は、いわゆる「キセル」(無賃乗車)もしましたし、万引きも五歳の時にしましたが、それでも、あまり罪意識はありませんでした。柿泥棒もしました。遠くですればよいのに、近所の家の柿を取って逃げ出しました。なぜ逃げ出したかといいますと、「こら!」と言われて逃げるのが、なんともスリルがあって楽しいんですね。なぜ近所の柿を取ったのかよく覚えていませんが、母親には申し訳ないと思います。

その他、みかん泥棒、みかんは近所にはありませんでしたが、集団疎開に行きましたときによくやりました。でもそんなことについての罪意識はほとんどありません。そんな中でも、下級生からご飯を奪ったことがありました。これは、深い罪意識になって私を苦しめました。なぜ、一方には罪意識はないのに、もう一方にはあるのかよく分かりません。人間との関係でしょうかね。親しい人との関係だったからでしょうかね。

(つづく)

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