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Joh.1-6 いつも光の内に


(「神の言葉であるキリスト」ヨハネの福音書からのメッセージ第六回。最後の回です。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち、「著者とその証言」と題したセクションより書き起こしています。)

でも、なんで希望が持てるでしょうか。なんで光が与えられるかと言いますならば、「世の光」であるお方の後ろについていくからです。このお方の後についていきます以上、私たちはいつも光を見ることができるのです。

私たちは太陽に向かって走るならば、光を目の前に見ていますが、後ろを向きますならば前には自分の影が見えます。暗さが前にあるのです。イエスさまは、私たちに豊かな命を与えてくださるばかりでなく、光の内を歩ませてくださるお方です。このように、ヨハネは宣言しているのです。

ヨハネはこの福音書を御霊に満たされて書いたときに、イエス・キリストこそ命である、イエス・キリストこそ世の光である、このお方に従って生きていきますならば、暗き内を歩まないですむのだ、命の光を持つことができるのだということを、私たちに示しているのです。

ヨハネによる福音書は、私たちに告知、アナウンスをしていると言われています。それは「あなたは命を持っていますか? あなたは光を持っていますか? あなたは神の語りかけを聞いていますか?」と聞いています。そしてヨハネは繰り返して、イエス・キリストは神の言葉であると言いながら、この神の言葉であるイエス・キリストは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊である」と叫び続けているのです。

罪を取り除く神の小羊なのだ。私たちの罪のあがないとして、私たちの身代わりに犠牲になってくださったお方なのだと、このようにくり返し叫びながら、このお方のうちにあって初めて私たちは違った人生が始まると言ったのです。

それは始まりですから、まだ一人前の命とは言えないかもしれませんが、でもそれは始まりなのです。その始まりが、いずれは人々のお世話をするような者に成長するのです。そのように変わるのです。豊かな命に変わるのです。

このようなことをヨハネは語ったのです。このお方のうちにあって、いやこのお方と一体になって生きていきますならば、私たちは永遠の命に生きていくことができます。いや罪はあるのですが、赦されているのです。赦されてあるのです。ですから罪はないのです。罪はなくなったのです。刑罰はすでにイエス・キリストが代わりに担ってくださったのです。だから私たちは罪や刑罰から解放されているのです。

ある人は罪を犯しても、もうそれは過去のことだと誇ってさえいるかもしれませんが、私たちの精神的な傷はそれらによって左右されるのです。

そのような罪の思いは、身体の中に刻印をして、それがさまざまな禍を招くことがあります。でも、イエス・キリストが罪を赦してくださった。罪は犯したけれども赦された。もう無罪放免になったのです。もう再び罪に問われることはありません。神がそれをお決めになったのです。もう正しい者と認めて下さるというのです。こちらが「罪を犯しました」と言っているのに、神のお言葉は「あなたの罪は赦されて、今は全く清くなった」と言ってくださるのです。ヨハネの福音書には、そういう特徴があるのです。

( 了 )

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