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Joh.1-5 命あふれる


(「神の言葉であるキリスト」ヨハネの福音書からのメッセージ第五回。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち、「著者とその証言」と題したセクションより書き起こしています。)

「やあ、命はあるじゃないか」と言っても、「命、命」と言っても、ベテスダの池のほとりにいました三十八年間患っていた人。毎日毎日池を見て、天使が池の面を動かす時、最初に入った人が癒されるという伝説を信じて待っていて、毎日むなしくたたずんでいる人。または家の周りに体を横たえていた病人たちも、確かに命は持っていました。でも、それは豊かな命、強い命ではありませんでした。病んでいる人々でした。

「あなたは治りたいのか?」とイエスさまが聞きますと、「治りたいんですよ」と。「では、床を取りあげて、立って歩きなさい」とイエスさまは言われました。すると立って歩んだというじゃないですか。もう池のほとりで、ボケーッと毎日水の面を見ている必要はなくなりました。立って、歩いて、驚くようなことが出来る。そのような命にあふれていくと言われました。

私たちもイエス・キリストを信じるまでは、豊かな命はありませんでした。細々とした命、逃げ隠れするような命、だれかから「あんた、何しているの?」と聞かれると、おじまどうような、恐れて道も歩けないような、こそこそした人生でした。

生きていたことは事実だけれども、家の中だけで威張っているような命であったのに、イエス・キリストを信じてから違った命が与えられました。豊かな命が与えられました。それが、ヨハネの「この言葉に命があった」というメッセージなのです。

またヨハネは、「この命は人の光であった」と言うのです。この命であるお方は、人間にとって光であるというのです。このお方のうちにありますならば、豊かな命があるばかりか、光を見出すことが出来ます。ヨハネによる福音書には、生まれながらの目の不自由な人の姿が記されています(九章)。

私たちは生まれながらにして、何も見えない者であるということを言おうとしているのです。生まれながら目の不自由な人とは、生まれながら真理を理解することができない、何が正しくて何が正しくないかを理解できない人間の事を指しているというのです。

でも、イエス・キリストは豊かな命をもたらされるばかりではなく、このイエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従ってくるものは、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(八章十二節)と言って、命と光とを併せ持った人間になることができると言われました。

いつイエスさまはそのように自己宣言されたかと言いますと、八章の姦淫の現場で捕まった夫人の話のすぐ後のことでした。彼女は生きていたのですが、石打ちの刑が目前に迫っていたのです。まだ処刑はされていないのですが、その命は風前の灯でした。でもイエス・キリストが介入なさり、「罪のない者がまず石で打て」と命じられると、みんなその場を立ち去ったのです。年配の者から去っていった、というのです。そのときイエスさまは地面に何か書いておられました。ある人は「十戒を書いていた」と言います。分かりません。

だれもが、罪を一つも犯したことはないとは言えません。人間はそのような罪人だからです。

(つづく)

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