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Joh.1-4 この言葉には命があった


(「神の言葉であるキリスト」ヨハネの福音書からのメッセージ第四回。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち、「著者とその証言」と題したセクションより書き起こしています。)

ヨハネによる福音書の「初めに言葉があった」という個所は、ある訳の聖書には「初めにイエス・キリストがおられた」と訳されています。「イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった」と訳されていますが、それは決して間違いではありません。神のお言葉であるイエス・キリストは神を表しており、私たちの罪を贖って救って下さったお方です。これが一章一節の言葉です。

しかも「この言葉には命があった」というのです。ヨハネが「イエス・キリストは神の言葉である」と言って定義をして、その神の言葉であるお方が私たちとどういう関係があるのかというと、「この言葉の中に命がある」と言ったのです。ということは、この言葉を持っていない者、このお言葉によって救われていない者には命がないということです。

「そんなひどいことを言って!」と言われるかもしれませんが、その意味は、神が本当に人間らしい命、豊かな命、神の命、神的な命を与えようとしておられるということです。この神のお言葉であるイエス・キリストに、神の命があるというのです。

生まれながらの命、動物的な命はあるのですが、本当に神の命に満たされていない者に向かって、この言葉なるイエス・キリストには命があるというのです。ヨハネによる福音書には、特に「渇く」とか、「食べ物がない」とか、「飢えている」という表現が多くあります。

「五つのパンと二匹の魚での給食」におきまして、午後になり、お腹がすいてというような状況が書かれていますね。人間はそういう者だというのです。命のない者、命の乏しい者だという事が、ヨハネによる福音書の前提になっているのです。

でもイエス・キリストが来られて、五つのパンと二匹の魚を割いて与えられたときに、どのようなことが起こったのでしょうか。びっくりするような表現がなされています。「すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた」(六章十一節)。

五つのパンと二匹の魚で、それを分けて、どうしてみんなが「望むだけ」与えられるでしょうか。さらに「人々がじゅうぶんに食べたのち」というのです。なんで人々が十分に食べることができるでしょうか。そんなに多くの物があるわけはないでしょう。

イエス・キリストには「豊かな命」があり、ほんのわずかな物からでも人々を、否、男の数だけでも五千人ですから、女性や子供を入れたならば、一万人、あるいは一万五千人ぐらいの人々を十分に満たすほどの、豊かな豊かな命があるというのです。豊かな賜物があるというのです。

イエス・キリストのうちには豊かさがあるのです。命のあふれるような、生き甲斐のあふれるようなものがあると、ヨハネは言ったのです。

(つづく)

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