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Joh.1-3 神さまからのラブレター


(「神の言葉であるキリスト」ヨハネの福音書からのメッセージ第三回。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち、「著者とその証言」と題したセクションより書き起こしています。)

彼は晩年、エペソで過ごしたと言われています。それにもいくつかの説がありますから、明確な事は言えませんが、とにかくギリシャ文化の中に自分の身を置いていたことは確かなことのようです。

晩年(彼は最も長生きし、紀元百年頃まで生きていた)は、ギリシャの世界に、ギリシャ的思考で福音を延べ伝えたのではないかと言われています。その福音というのは、いわゆるギリシャの哲学、考え方を用いながらイエス・キリストの福音を語ったと言われています。

生まれも育ちもガリラヤの漁師でしたが、今やギリシャ文化の中にいて、ギリシャ人、あるいはヘレニズム文化の人々に伝道しなければならなかったので、当時の人々がみな知っていた「ロゴス」という言葉を用い、ヨハネによる福音書のはじめに、「イエス・キリストはそのロゴスなのだ」と言ったのです。

紀元前五百年頃、ヘラクレイトスという哲学者が「すべて世界は変わっていく、しかし、変化の原則は変わらない」と言いました。そして「不変的なもの、絶対に変わらないもの、それがロゴスである」と言いました。例えば「カタログ」という言葉がありますが、「カタ」というのは「従って」ということです。「ログ」とは「ロゴス」のことで、「法則に従って」という意味です。ですから、一定の規格に従ったパンフレットの事を「カタログ」と言いますね。

ギリシャ人は、その変わらないものが神であると思っていました。ところが、紀元後五十年頃になりますとフィローと言う人が、「いや、このロゴスというのは、神と人間とを媒介する、仲介するものである」と言って、ヘラクレイトスの考えを変更しました。

それから約五十年たって、ヨハネが「実は真理であるお方、そして神と人間とをとりなすお方、そのお方こそイエス・キリストなのだ」と叫んだのです。

私たち日本人にとってこの「ロゴス」というのは、非常に分かりにくいものです。でも当時の人々、特にヨーロッパの人々はギリシャ文化の中に育てられていましたので、イエス・キリストはロゴスなのだと言いましたならば、すぐ分かったようです。イエス・キリストは変わらないお方、真理であるお方、人間と神との媒介者、仲保者、仲介者であり、人間はこのお方を通して神を知ることができる。そういうお方である。このお方は、真の神にして真の人間なのだ。だから人間の罪を担って、私たちの代わりに十字架にかかることができたのだということを表現しようとしたのです。

つまりヨハネが言おうとしたのは、私たち日本人には分かりにくいのですが、イエス・キリストは神の言葉なのだ。神のロゴスなのだ。このお方を見れば神は分かる。あの十字架と復活の中に、神はおられるのだ。神の姿が分かるのだ。そういうことを言おうとしたのです。

例えば、「イエス・キリストは神の言葉である」という場合に、私も今言葉を使っていますね。この言葉を媒介として、福音を語っているのです。神はイエス・キリストというお方を通して、私たちに向かって語りかけておられるのです。イエス・キリストの生涯と御業、イエス・キリストのお言葉を通して、神はご自身を表しておられると語ったのです。

一言で説明するのは難しいのですが、イエス・キリストこそ私たち何もわからない人間に対して、神のみ思いを、神のみ心を表してくださることの出来る、神からの語りかけなのだ。神からのラブレターなのだ。それがイエス・キリストなのだという事を言おうとしたのだというのです。

(つづく)

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