top of page

Joh.1-1 雷の子


(今回から、六回に渡り「神の言葉であるキリスト」と題し、ヨハネの福音書からのメッセージを連載いたします。本文は藤巻先生の著書「極みまでの愛」序章に収録されているショートメッセージ三篇のうち、「著者とその証言」と題したセクションより書き起こしています。)

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(一章一~五節)

クリスチャンには、「健やかな魂型」のクリスチャンと「病める魂型」のクリスチャンがあると言われています。この「ヨハネによる福音書」というのは、使徒ヨハネが書きましたが、このヨハネはそのどちらでしょうか。イエスさまに従っているのに、ご存知のように彼にはあだ名がつけられていました。それは「ボアネルゲ」といい、アラム語で「雷の子」という意味でした。

日本でも「地震、雷、火事、おやじ」といわれたりしまして「雷の子」というのは絶対におとなしい人を表してはいないのです。「瞬間湯沸かし器」ではありませんが、パッと反応するのです。

私なんか、その典型です。こういう人のことを「病める魂型」といいます。「健やかな魂型」もたいへんすばらしいのですが、「病める魂型」だってすばらしいのです。

「じゃあ、イエスさまを信じて救われても変わらないのですか?」。これもまた、困った質問です。というのは、ある宗教心理学の学者にいわせますと、「変わる面もあるけれども、絶対に変わらない面もある」というのです。それを聞いてある人は納得します。「ああ、そうだ」と、自分の事ではなくして、自分の伴侶とか子供のことで納得する人がいます。「信仰を持ったけれども、ちっとも変っていない」と。確かに変わっていない面もあるのです。

では、このヨハネはどこが変わったのでしょうか。イエスさまについていっても、自分の気に入らないときにはカーッとなるのです。サマリヤの町に入りましたとき、町の人々が通せん坊をしてみんなを通しませんでした。そのとき最初に怒ったのは、このヨハネでした。「イエスさまは、せっかく伝道してあげようと思っているのに、通せん坊するとは何事ですか! この人たちの上に、天から火を下してください!」といったというのです。せっかく良い気持ちでやってあげようと思うのですが…。

みなさんも、トラクト配布かなにかして、せっかく渡しているのに何か言われた方はありませんか。あるでしょう。そんなとき、どう思いましたか。「どうも思いませんよ。イエスさまだって迫害されたんだし、弟子たちも迫害されたんだから」とにこにこ笑って帰ってきましたか。「なんで、せっかくすばらしい福音を伝えてやっているのに!」と言いながら帰るのは、ヨハネ型なんですよ。

(つづく)

bottom of page