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Hab.7 変わらない訳がない


(「現状を変える信仰」ハバクク書からのメッセージ第七回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

「見よ、その魂の正しくない者は衰える」(二章四節)。間違ったものは、神の審判を受けるのです。でも、神との関係に生きる者は、その信仰によって生きるのだ。信頼して生きていくのだということが、ハバククへの答えなのです。

そして、二章六節以降を見ますならば、「わざわいなるかな」と、五回も神はさばかれています。正しくない者はさばかれるのだ。神の民に敵対するものを、神はさばかれるということが、繰り返し語られているのです。そして神を信じる者は、現状はたとえどうであったとしても、現状を変えていくのは神を信じる信仰なのだと言っているのです。

最初の聖書の個所に戻りますが、いちじくの木に花が咲かなかったならば何になりますか。ぶどうの木に実が実らなかったならば、何になるでしょうか。オリブの木から実が採れなかったならば、何になるでしょうか。田畑から食物が収穫できなかったならば、その田畑は何の役に立ちましょうか。おりがあっても羊や牛がいなければ、何になりますか。

何にもなりませんよ。人生、あるいは生涯の中に「何もない」ということは、実に寂しいことです。でも、時には嬉しいことです。というのは、これからすること、これから与えられることは、みんな神が与えて下さる事だからであります。

「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、私の足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(三章十八~十九節)この聖書の個所を新約聖書に照らして解釈しますならば、神との関係に生きるということは、神の御子イエス・キリストの救いを確信して生きていくということなのです。

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ八章三十二~三十一節)。

神の御子イエス・キリストが十字架にかかって罪をあがなって下さった。その罪のあがないを信じる。罪は犯したけれども、その罪は赦されたのだということを信じて生きていくのです。全く零(ぜろ)になるような、そういう時がやってくるかもしれません。しかし、永遠の命が与えられ、神は豊かな報いをもって死の彼方で待っていて下さるのです。栄光の冠が待っているのです。死は恐怖の敵であるにもかかわらず、その敵はすでにイエス・キリストの復活によって征服されているのです。

このような神を信頼して、御子イエス・キリストの救いの御業、イエス・キリストの死と復活という、死の克服が与えられたという喜びの訪れを信じる者に、なんで現実が変わらないことがあるでしょうか。このお方が私たちを愛し、私たちのために最善をして下さるのです。だとしたならば、私たちが変わらない訳はないのです。

(つづく)

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