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Hab.4 義人は信仰によって生きる


(「現状を変える信仰」ハバクク書からのメッセージ第四回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

ある牧師が、自分の子供が交通事故で亡くなったとき、「私は山の上を歩きながら、このまま山の下まで落ちて死んでしまいたい」と思ったというのです。どんなにその悲しみが大きかったことでしょう。それは、死んでしまいたいほどの苦しみなのです。納得できない。理解できない。死んでしまいたい。自分が死にたいというのです。

「どうして黙っているんですか」と、ハバククが神に問いかけますと答えがあるに違いありません。そう思って、二章で「わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自ら何と答えたらよかろうかを見よう」と語っています(二章一節)。待っていますと、答えが返ってきました。

「この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし、義人はその信仰によって生きる(二章三~四節)」

ハバククがこれで納得したのかどうか、私には分かりません。でも、ハバククに与えられた神の答えは、バビロンの人々も間もなく刑罰を受けて滅んでいくのだ。しかし、義人は信仰によって生きるのだ、というものです。この言葉は、新約聖書ローマ一章十七節、ガラテヤ三章十八節、へブル十章三十八節に引用されています。

「義人」は神の民を指しています。すなわち、義なる神との関係に入っている人のことです。旧約聖書の解釈によりますと、義人というのはイスラエル人のことです。しかし、新約聖書の解釈によりますと、イエス・キリストの十字架の贖いによって義とされた者のことを指します。このハバククの時代には、イスラエルの人々、すなわち神の民を指していました。

イスラエルに行きまして、バスに乗っていますときにユダヤ人とお話をしました。彼は私に、「ぜひ、『義なる人』という本を買って読みなさい」と言いました。「義なる人とは、だれのことですか」と尋ねますと、「それはイスラエルの民です。イスラエルの民を救った人、それは第二次世界大戦中に、ユダヤ人をあのナチの迫害から救った人々です」と彼は説明してくれました。私はそれに納得したのではありませんが、ユダヤ教の人々が理解している「義人」とか「義なる行為」が何であるかを、その人から教えられたのでした。

換言しますならば、神との関係に生きる者(私たちクリスチャンもそうですが)は、徹頭徹尾、神を信頼して生きる者であるという事です。

現実は理解できないような不幸、耐えられないような問題があったとしても、クリスチャンは神を信頼し、神を信じて生きていくのだというのです。それが神の民、神を信じる者たちの生き方なのです。そのことを、ここで教えているのです。

(つづく)

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