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Exo.1 神さまには時がある


(今回から、出エジプト記三章十~十三節より「神の器・モーセ」というテーマで、全五回のメッセージを連載いたします。本文は、2017年6月25日 日本ホーリネス教団 津久井みのり教会においてのメッセージ音源から書き起こしています。)

今日のメッセージの個所は三章なんですけれども、ちょっと一章をご覧になってください。一章の八節には、「ここに、ヨセフの事を知らない、新しい王がエジプトに起こった。」とあります。ヨセフはエジプトに富をもたらしたんですけれども、もうヨセフの事なんか知らない人が王さまになり、イスラエルの民を奴隷として使ったのです。何のために使ったかと言いますと、十一節に「そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた、彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスとを建てた。」とあるように、エジプトの為に奴隷として働けと、こういう事になったというんですね。

みなさんもご自分の家庭のために、子供のためにお仕事をなさってきたかと思うんですよね。大変だと思います。私の家内も子供のために、子供の教育のために医療事務の仕事をやっていましたね。

それで、その神の民がラメセスの人々のために、一生懸命奴隷として働いて、男の子が生まれればナイル川に投げて殺してまえと。なんという残酷なこの世の力かと思いますよね。そういうような時、神さまはもっと早く何とかしてあげたらいいのにって私は思うんですけれども、神さまには時があるのですね。

そして、生まれた男の子、ナイル川に投げて殺してしまわなければいけないんですけれどもあまりに可愛いものだから、母親はかごに入れて川のほとりの葦の中に隠しました。それで、たまたまパロの娘であるエジプトの王女の一人がそれを見つけて、その子をエジプトの王子の一人として迎えるんですね。そしてその子をモーセと名付けます。

そしてエジプトの学問、経済、軍事的な事や、すべての科学を習得したあとで、モーセは自分はエジプト人でなく、イスラエルの者であるということが分かります(赤ん坊の時に、自分を包んでいた布切れから)。みなさん映画の「十戒」を思い出されるかと思うんですけれどもね。

「私はエジプト人じゃなく、イスラエル人なんだ」そういって彼はある時、イスラエルの人がエジプト人にいじめられているのを見てかわいそうに思い、エジプト人を打って殺してしまいます。ところが次の日、イスラエル人同士が争っているのを仲裁しようと間に入っていったら、「誰がお前を我々の頭としたのか、昨日エジプト人を殺したように私たちを殺そうとするのか」といって脅されてしまい、彼はエジプトから逃れていくのであります。

その時、彼は四〇才、四〇年間エジプトで生活して、その後の四〇年間は何をしたかと言うと、ミデヤンの地に逃れて、そこでリウエルさんという人の家を貸して頂いて、たまたま娘のチッポラという女性と結婚して羊を飼うようになります。みなさんね、羊飼いとして彼は何年羊を飼ったと思いますか。四〇年間ですよ。なにも羊を飼うなら、四〇年間なんか飼わなくったっていいでしょうに。

(つづく)

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