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Rev.1 生きているとは名ばかりで


(今回より、ヨハネの黙示録からのメッセージを連載いたします。同様に、本文はコラム「希望の門」より書き起こしています。)

この書物のテーマは「歴史を導かれる主イエス」というものでございます。「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」(一章十九節)とありますように、イエス・キリストさまが過去のことを、また現在のことを、そしてこれから起こる未来のことを、人々にお示し下さっているのでございます。

過去のこと、というのはどういうことかと申しますと、一章の四節以降にございますように、イエス・キリストさまが私たちを愛して十字架にかかって血を流して下さり、そして死から復活されて、私たちに罪からの解放と永遠の命を与えて下さったということ、これが、過去に起こったこととして書かれてございます。

そのお方は、今も、教会の中を歩み続けておられます。ですから、みなさま方が教会にいらっしゃるとき、たくさんの人たちとお知り合いになるかもしれませんけれど、なによりそこでは、今も生きておられるイエス・キリストさまとお知り合いになることができるのでございます。

そして現在のことですが、これは「現在の人間のこと」と言ってもいいかもしれません。

現在生きている人々は、かつてはなにかに情熱を燃やしていた、けれども今はその情熱を失ってしまっている、と「黙示録」は語ります。

そういう「現在の人々」の七つのタイプを、「エフェソの教会」とか、「スミルナの教会」というように、この書物は教会にたとえて表現しています。

第一のタイプは、愛が冷めてしまった人々、情熱が冷めてしまった人々。これが第一の種類でございます(エフェソの教会)。

二つ目は、苦しんでいる人々。もがいている人々でございます(スミルナの教会)。

三つめは、貪欲な人々でございます(ベルガモンの教会)。

四つ目は不道徳な人々でございます(ティアティラの教会)。

五つ目は生きているというのは名ばかりで、実は死んでいる人々でございます(サルディスの教会)。

「生きているのは名ばかりで実は死んでいるとはひどい言い草だ。失礼なことを言うな」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし「黙示録」は、今日の人間には生きているのは名目だけで、実際は死んでしまっている人々がいるのだ、と語っているのです。

(つづく)


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