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Mat.1 マタイという人

(今回から、4回に渡りマタイの福音書からのメッセージを連載いたします。本文は廃刊となりました月刊誌「ミーニング」に連載しておりました「希望の門」という藤巻先生のコラムより書き起こしています。)

新約聖書に収められていますはじめの四つの書物は、福音書と申しまして、主イエスさまが誰であるか、何をしてくださったかということを、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四人の福音書記者が、それぞれ違った角度から述べているものでございます。

今回は初めてですので、マタイが、主イエス・キリストさまをどのように書いているかを、お話ししたいと思います。

ご存知の方もおられると思いますが、マタイという人はイエス・キリストさまの直弟子である十二弟子の一人でございまして、弟子となる前は取税人をしておりました。彼は主イエス・キリストさまと同じユダヤ人でございますから、生まれたときから「神を愛し、人を愛せよ」というユダヤ教の律法を教えられていたのでございます。しかし、それを聞いて育ったにもかかわらず、彼は人々をだまし、ごまかしてお金もうけをする取税人になりさがってしまったのでございます。

ところが、イエス・キリストさまに出会ってから、彼には全くちがった人生が始まっていったのです。そしてその人生が、主イエス・キリストさまを信じると律法を守っていけるような人間になることができるという、五章の十七節の高らかな宣言に結実するのでございます。イエス・キリストさまは、律法をないがしろにするために来たのではない、むしろイエス・キリストさまを信じると、律法が守れるようになりますよと、彼は語ったのです。

よく私たちは、神さまを愛し、人を愛しなさいといいます。けれども心理学者は、それを聞かされる人は同時にそれをしないで済ますという、まったく反対の可能性にも目を覚ますということを申しております。

もっとわかりやすく申しますならば、「勉強しなさい」と言われますと、勉強しないで済ませる可能性に目を覚まします結果、ますます、勉強嫌いな人間になっていくというようなことでございます。ですからよく私は、「勉強するな」と言ったらどうなるんだろうか、そうしましたらば勉強する可能性に目を覚まして、勉強できるようになるのではないだろうかと、こういうように思うのです。

まあ、どなたの親御さんも、それをする勇気はございませんけれども。でも実際に、「こうしてはいけません」というと、人間はそれをしたくなってしまうものでございます。(つづく)

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