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Ezk.5 私たちの痛みの意味


(「教会の使命」エゼキエル書からのメッセージ第五回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

神のために役立つような人間が何からできたかといいますならば、「枯れた骨」からできたというのです。いわゆる優秀で、エリートで、すばらしい人間が神の軍隊になったのではありません。私たちは、しばしばそう思います。「いや、あの人は元々こうだったから」。「生まれがこうだから」。「両親がこうだから」、「教育が…」と言います。しかし、そうではありません。

ペテロを見てごらんなさい。あの失敗だらけの人間だからこそ、失敗している人たちを正しく導くことができたのです。だからといって、私たちも「失敗せよ」と言うのではありません。私たちは開き直ってはいけませんが、私たちが弱かった。悲しかった。こんな辛いところを通らせられた、という痛みを経験したということには意味があります。そういうことを経験しないで、そういうことを経験している人々を救い出すことなどできません。そんなことは分かりきっています。

ある学校でカウンセリングの授業を担当している教授が、「カウンセラーたちはみんな心の病を持っている」と言いました。心の病を持った者がはじめて、カウンセラーになることができるのではないでしょうか。もちろん、全部がそうではないでしょうが。

そのような痛みや苦しみを経験しなかったならば、人々の持っている問題に同情できないのです。イエスは、「わたしの小羊を養いなさい」と誰に向かって言われましたか。それは、迷いやすい羊の筆頭であるペテロに対してでした。私たちは過去に、「こういう失敗をし、こういう問題があった」。「こういう過程で、こういう弱さがあった」。

だから私たちは役立つことができるのです。

教会には、いろいろな人が集まってきます。さまざまなハンディを持っている人もいます。中には健康な人が嫌がるような人がいます。しかし私たちが、この神の言葉を語っていきますときに、そのただ中から神の器が起こされていくのです。ダビデが「ならず者」と言われたような者の中から、彼の軍隊の将軍が出てきたのでした。

私たち神の器、神の勇者は、さまざまなハンディを負った中から、神の軍隊になった者たちなのです。「枯れた骨」のような、どうしようもないようなばらばらの人間が、神の言葉を聞き、神の息が吹き込まれることによって生きる者となったのです。神の軍隊となったのです。これはすばらしくスリリングなことです。

(つづく)

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