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Ezk.4 人の子よ、これらの骨は生きるのか


(「教会の使命」エゼキエル書からのメッセージ第四回。本文は藤巻先生の著書「聖書は語る」より書き起こしています。)

救いが自分の中だけで止まっていますならば、それは個人プレイに過ぎません。どんなにすばらしい経験でも、その人だけのことに過ぎません。エゼキエルは神から預言者として立てられ、語るべきメッセージを与えられて霊・肉ともに救い出されたときに、先ほど読んでいただきました幻を見て、預言したのでした。

三十七章一節、「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ」ました。そこで彼は未だ見たことのない世界、すなわち、枯れた骨が谷にいっぱい満ちている所を見せられたのです。三節、「彼はわたしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』。わたしは答えた、『主なる神よ、あなたはご存知です』」。十一節、「『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と」。

人々のこういう枯れた骨の姿、絶望のどん底にある姿を、主の霊に満たされた時に見ることができたのです。

普通ならば、見ることはできません。しかし今や、人々の嘆き叫ぶ声を聞くことができました。聞き取ることができました。普通であれば聞き取る事のできない声を聞き取ることができ、見ることのできない、民の真相を見ることができたのです。

私たちは自分自身が救われ、立ち返って方向性を見いだし、霊・肉体・精神ともに救いが与えられ、そして、神の御霊に支えられて人々の姿を見ていきますときに、人々の姿が枯れた骨のような状態にあるということを知るのです。若者も中年の者も年寄りも、みな同じです。みんな枯れた骨のような状態になって、「われわれの望みは絶え果てた」と嘆き叫んでいるのです。

それを聞き取り、その姿を見ることができます。私たちが主の御霊に満たされて出て行きますならば、御霊がそういう世界を見せて下さるのです。

それに対して、何もしないわけにはいきません。四節「これらの骨に預言して言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす」。

どうしたならば、これらの枯れた骨は生きるのか。七節にありますように、「わたしが命じられたように預言したが、わたしが預言した時(神の言葉を語った時、イエス・キリストの十字架と復活の神の言葉を語った時)、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨とが集まって相つらなった」。ばらばらになっていた骨が、連なって骸骨になったというのです。さらに「わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、『人の子よ、息に預言せよ。息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ』。そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった」。別訳では「群衆」という言葉が、「神の軍勢」となっています。

(つづく)

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